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日仏国際シンポジウム 陸軍とフランス—制度と技術の移転から見た明治の陸軍遺産の再評価


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<日仏工業技術 2013 Tome 59 No.2>への寄稿

さる(2014年 ※転載時に追記)3月2日、恵比寿の日仏会館ホールにて日仏工業会主催による「陸軍とフランス—制度と技術の移転から見た明治の陸軍遺産の再評価」と題されたシンポジウムが開かれた。タイトルから即座に司馬遼太郎の『坂の上の雲』を思い浮かべる方も多いだろうか。

シンポジウムの構成概要

シンポジウムは午前から夕方までかけて行われ、シンポジウムの前半は、「主に明治時代に建設された陸軍関連の施設およびその歴史的背景に焦点を当て、それらとフランスとの関係を紐解くもの」だった。明治期における近代国家樹立過程での軍事、産業におけるフランスとの関わりがおもに建築における技術移転を通して紹介された。
後半はこれらの施設が今日「国防遺産」として歴史的評価を得てきている現状と、今後の関わりや利活用の方策についていくつかの地域の事例が紹介された。最終的には現在計画が進められている新しい新発田市庁舎や同市内で進められているまちづくりの現状にまで話が及び、フランスをきっかけにして現代の地方都市が抱える課題を議論するに至った。

フランスにおける軍事施設の近代化

まず、前提として日本に技術移転するまでの時期、ナポレオン三世の治世下で進められたフランス国内での国防技術の近代化について概説された。近世以降の火器、砲撃の発達は同時に土木・建築技術の発展を促し、フランス北東部のメスに置かれた工兵学校では砲撃に備えた各種教育が行われていた。また東部のシャロン屯営は軍事都市というべき規模で整備され、国外へ向けて軍事技術を広報する役割を担っていた。
この時期、軍の近代化を図ろうとしていた江戸幕府の使節団から要請をうけて始まったのが、軍事顧問団の派遣である。この関係は明治維新を経て国家の体制が変わってからも続くことになった。

軍事と産業、技術移転の過程

江戸の幕藩体制下では家臣団だったものが、明治の中央集権体制下では徴兵により国軍を編制する形に大きく様変わりした。その過程でフランス軍事顧問団が果たした役割は非常に大きく、軍制のモデルのみならず、相次いで来日した技術将校らはそれぞれの時代に応じた重要な仕事を残している。1887年(明治20年)頃からプロイセン式の軍制に移行するため、ドイツ式との認識が強い陸軍であるが、フランスからの影響の大きさは看過できない。技師に限らず陸軍士官として日本国内で指導を受けるほかフランスに留学する者も多く、彼らの系譜は後に「フランス派」ともいうべき層の厚さをみせることになる。
そのフランス軍事顧問団から「ミカドの軍隊(L'armée mikadonale)」と評された陸軍は、工兵大尉ジュルダンらの協力を仰ぎながら各種施設設計の標準化を進めた。市ヶ谷台におかれた陸軍士官学校の校舎(1874年 [明治 7年]) はジュルダンの設計によるものであり、この時期検討されたプロトタイプは、1848年フランスの工兵大尉ベルマスによってマニュアル化された兵営建築に範をとったものである。日本からは中村重遠—廃城令のもと、取り壊しの危機にあった姫路城や名古屋城の保存を進言したことで知られる—らが設計の任にあたった。
この標準設計に基づいて鎮台(後の師団)のおかれることとなった全国各地に兵舎の建設を進めていくことになり、なかでも代表的なのが、弘前におかれた歩兵第五聯隊兵舎(1878年(明治11年)頃)、そして今回のシンポジウムの要となる新発田歩兵第十六聯隊の兵舎、通称「白壁兵舎」(1874年(明治7年))である。いずれも先の標準設計に忠実にしたがった設計だが、雪国の状況を鑑みて雁木が設けられていることが興味をひく。「白壁兵舎」は標準設計を鏡像反転させたほぼ倍の規模(梁間10.9m、桁行106.6m)をもち、さらに後述する工場とは異なり柱の配置に制約が少ないため、フランス式トラスはその中央部で舟肘木を介して柱にのせられる、という特徴的な構造を採用している。また外部四隅のコーナーストーンをのぞいては「白壁」の名の通り、白漆喰仕上げで屋根も瓦で葺かれ、いわゆる和洋折衷の様式をみせている。さらに新発田城の古材が一部に使用されていることも今回の移築復元作業時に改めて確認された。
一方、産業界の技術移転の例としては殖産興業の中心に据えられたものとして富岡製糸場があげられるが、丁度この原稿を執筆中に世界文化遺産への登録が内定し、現地は活況を呈しているようだ。
ここでは生糸の輸出振興と品質向上をめざし、フランスに範を求めた。おもに1. 建築、2. 操系、3. 工場運営の三つの分野であり、このうち建築技術でフランスから移転されたのは、トラス(斜材)、レンガ、布礎石、ガラス窓、鉄サッシ、金物(ボルト、ナット、ロック、蝶番など)、ペンキなどとされている。トラスについては今日「フレンチトラス(フランス式トラス)」という名前が残っている通り、フランスからの移転を象徴する技術である。これにより、繰糸場は桁行約140.4メートル、梁間12.3メートル、高さ12.1メートルの無柱空間で、世界的に見ても当時の最大規模のものとなった。また「木骨レンガ造」と呼ばれる木の骨組みにレンガを積み入れる構法はカーテンウォールの一種といえるが、ここで採用されているレンガ積はよく「フランス積」と言われる工法であるものの、かねてから本来は「フランドル積」と言うべきだと指摘されているものである。
これら技術移転の過程はお手本とする国(この場合はフランス)で開発、理想化された技術を導入した上で、わが国の環境や事情にあわせて現地化、さらにその技術の改良と独自技術の開発・改良、外への移出、というものになる。
日本における近代化の過程とは欧米列強に対する地位の向上とコンプレックス解消の過程であることを考えると、舶来の技術を称揚した上で自国にある技術と改めて照らし合わせ随時改善を図るという過程だったのだろう。

遺産の評価と利活用の現実

こうして移転された技術に基づいて各地に建設された施設のうち、現在でものこされているものについては保存・活用について議論されるようになってきた。上のそれぞれの例からは時代が少し下るがその後日本各地に建設された「赤レンガ」建築物の中でもそれらを代表する舞鶴(京都府)の旧海軍施設と善通寺(香川県)の旧陸軍施設の保存・活用事例について報告がなされた。
ともすれば文化財として静的な保存ばかりに偏りがちななか、生きた教材ともいう手法で広くその存在を知らしめていくことは今後も様々な事例で参照されるべきところだろう。社会のありかたが変わりつづける以上、建物の活用法が更新されていくことは必然と考え、時代の要請にこたえられた方が健全ではないかとの捉え方が優勢になりつつあるように思う。
この日パネリストの一人からあがった「五時から仕事」という言葉に代表されるように、「保存運動」という有識者主導の硬直しがちな活動ではなく、もっと個人の自発的で能動的な感情に基づいた活動の仕方がある、という姿勢や、保存活用したい側にとってのいわゆる抵抗勢力や無関心な市民の巻き込み方をユーモアあふれるエピソードを交えつつアドバイスされる様子に励まされた聴衆も多かったのではないだろうか。
寒村の民家などの例を持ち出すまでもなく、社会の大きな流れから「取り残される」ことで、ある時間の閾値を超え、歴史的意義をもつものとして「発見される(見出される)」という流れにつながることは多いように思う。社会の変化に必ずしも即応しなくてもよい/できない環境にあった建築物がまだ全国各地にのこされているはずで、それらを掘り起こしていく作業も急務だろう。
今回「国防遺産」として紹介されていた旧日本軍の施設は戦後民間への払い下げなどがあったなかでも自衛隊の管理下へおかれたものが少なくなく、防衛省も2000年を過ぎた頃から全国の実態把握に乗り出しているという。「白壁兵舎」もその流れのなかにあり、その移築復元に見られるように、戦後七十年近い時間を経てくるなかで営繕の対象であった「施設」が広報や観光「資源」としての役割を見出され、市民側にもそれを受け入れるこころの準備が整ってきたということなのだろう。
ただ、当日指摘もあったように「白壁兵舎」の移築復元事業が防衛省の予算だけで実施されていることは今後このような施設の扱いを議論する際、どこがイニシアチブをとるのか、という点について問題をはらむことを予感させる。
いずれにせよ、姫路城を取り壊しの危機から救った中村重遠らにみられる見識が、今日建築物に関わる技師をはじめとした人々に受け継がれているのかが問われていると捉えたい。
なお、このシンポジウムが開かれるきっかけとなった新発田市の「白壁兵舎」は、新発田城内での移築復元作業を終え、陸上自衛隊新発田駐屯地「白壁兵舎広報史料館」としてこの(2014年 ※転載時に追記)5月11日に開館している。

<日仏工業技術 2013 Tome 59 No.2>への寄稿