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"LinkAge"
"LinkAge"

issued: 2002 / 05 / 01

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LinkAge

オランダ、アムステルダムのダンスカンパニー[KdC: Dansgroep Krisztina de Ch液el ]とのコラボレーション作品。
長方形のステージに3枚の回転するスクリーンが設えられ、観客は周囲から両側から...。
2000年度アムステルダム「julidans」招待作品。
その後、欧州各地で公演の後、同年10月には東京、国際交流基金フォーラムにて日本初演。
(国際交流基金助成事業)

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"照明もサウンドもアクションもすべてが作品の一部である"

Dominion / 4 Mar.02
by Jenny Stevenson

LinkageはオランダのKdCと日本のNestによる2ヶ国のマルチメディアコラボレーション作品である。作品の中においてはダンサーはその一つの構成要素に過ぎない。つまり、舞台美術や映像やサウンドや照明などすべてを等価に扱うことに重点が置かれている。
その結果はすべてを俯瞰してみることによって始めて得られるものであり、どの構成要素も個別に見て判断されるべき物ではない。さてその結果....構成要素(Art Form)の間に支配関係は存在しない。−ここに疑問が持ち上がる。「アーティスト性は何処に?クリエイションとコンセプト作りにおいて必要なのでは?パフォーマンス作品を作るという行為それ自体がアートイベントなのでは?」

これは規定された作品であり、個々の構成要素によってその解釈に僅かな余地を与えられた作品である。この点において、この作品は真のコンテンポラリーダンス(=今日のテクノロジーとの融合によって生み出されたダンス)であるといえるだろう。生まれてもった可能性の数々を認識し、それらを芸術創造へつぎ込む為に蒐集する。テクノロジーに対するアートの反応としてよく見られるのは"全否定"という態度である。Linkageでは多様な構成要素がLinkする上での進路を確立しようとしている。作品は秒刻みで制御され、これによって複雑なシークエンスを可能にしている。

ダンサー達はコンスタントに変化するパフォーマンス環境に適応しなければならず、
"error"を起こす余地はない。パルスするテクノミュージック、常に変化するステージレイアウト、息を飲むような映像と照明はお互いを引き出し合うように作用している。たとえ同じ動きが繰り返されても、そこには異なる文脈が現れる。その効果は千変万化である。ダンサーは1時間フルにパフォーマンスし続けるというマラソンランナーのような離れ業をやってのける。そのスタイルはまるでぴんと張りつめた糸の一点かの様にタイトな、アティテュードの無いテクノダンスである。作品中にダンサー同士の接触もある。おそらくそれはスクリーンによって分断されるせいでもあろうが、時に彼らは著しく融合する。彼らはまるで、すべてに影響を及ぼす程までに強固に征服されたエゴの一団の様に動く。パフォーマンスの大部分でダンサーは回転するスクリーンに巻き込まれる。スクリーンの間にできた回廊を旅したり、器用に輪を描いたりして...。それはまるで、めまぐるしく移り変わる都市の映像によって補強され、容赦のない速度を約束された、終わりの無い旅の様でもある。

Nestによって作り出された照明効果は、過激で高度にコレオグラフされているという点において実に独創的である。照明の光が観客席をまるでパフォーマンススペースであるかのように動き回るので、ステージの両サイドに座って対面した観客は顔を照らされ、お互いを合わせ鏡の中に見る自分自身のように見ることになる。

この作品の意味を解釈しようと試みることはナンセンスである。観客はむしろ自分自身の感覚を広く開いて臨むことを求められる。
その効果は「To Be Continued(つづく)」−次を予期するような何かとなって現れる。


"エレクトリックに変換され許容量を越えた知覚器官"

Dominion / 5 Mar.02
by Jennifer Shennan

Linkage/Shed 6/豪雨/オランダと日本/ハイテク映像とサウンドとムーブメント/一時間、休憩無し/観客はステージ両サイドに座り、ステージセンターのスクリーンによってお互いを覆い隠される/20分遅れの開演/白い衣装とボテッとした靴を身にまとった6人のダンサー/回転するスクリーン/ステージに閃光を放ち観客席を徘徊する照明/模様が浮かび上がる/リズミックなインパクトより多くのビジュアル/"都会の孤独"というテーマが現れる/たくさんの抽象的なイメージ/映し出されたスクリーンの映像が歓迎の挨拶を告げる/ダンサーの一人は純粋で力強く興味深い物を彼の動きの至る所に持っている/他のダンサーは動揺する/ボリュームが上がる/耳栓をする/ストップウォッチがまだ半分に到達していないことを我々に知らせる/“知覚は許容範囲を超えた”(そう体が言っている)/何の展開も佳境も用意されていない/ストロボライトの中でエアロビクスをしているような催眠術のようなパフォーマンスが一時間ただつながっているだけ/携帯電話が鳴る/これもスコアに書かれたことなのか観客の物なのか判別不可能/激しい雨が屋根をたたく/これはたしかに本物だ/初期のジョン・ケージの方法論が非常に愉快/スクリーンがダンサーに見えてくる/観客の何人かが帰ってゆく/多分開演が遅れたことで家に帰るバスを逃すかもしれないからか?−もしくはただ単に退屈だからか?/

私はむしろMilford Trackを歩いて帰りたかった。が、観客の多くはシリコンチップのデジタルワールドとダンサー達の規律正しい動きとの融合に魅了され、大いに喜んでいることに気づく。


"Brilliant must-see dance"(見ずに死ねるか!−by 内藤陳)

Capital Times/ 6 Mar. 02.
by Deirdre Tarrant


初め私は、Linkageにおけるtechnological multi-mixにはおぼろげな期待しかもっていなかった。私の眼前に展開されたのは、音と可動式スクリーンと継続するパルスとドライブするエネルギーによって制御された6つの高度に独立した(にも関わらず似通った)肉体であった。それは脅威であり辛抱するには耐え難いが、しかし魅惑的なモノだった。

生命のランダムな選択は広い視野と時間軸-Linkageのアクションによって指示を受けた時間-の中では決してランダムな物ではない。

若者は不和を唱え、怒りとストレスは熱狂的で、締め付けられるような、容赦のないダンスによって威力を持って捕らえられる。

6つの白い肉体は閉ざされた空間の中に投げ出される。
肉体と精神に襲いかかる天変地異は経験値を未来へと走らせる。

視点と空間を変えること事は、ダンサー同士の関連性と同様に傍観者である我々の遠近感に作用した。

ダンサー達を追い、時には捕らえ、時にはかすめてゆく不安定なカメラの映像は我々の経験値にダイレクトに働きかけ、制御することができず無力な自分あるいは「もう充分」と叫ぶ自分をさらけ出させる。

衝突や接触の瞬間は自動車の衝撃のインパクトごとくすごいものだった。
テクノロジカルな主人公達は“ダンサー”として見られることを強いられた。

ロボティックな照明、手持ちカメラの映像から反対側に座っている観客まで、様々な選択肢に追い立てられ、私はカウンターを眺めていることに気づいた。
幕引きは残酷かつ突然−連打される知覚虐待の突然のシャットダウン−であった。

ダンサー達が休息をとる瞬間は、彼らが再びLinkageの中の生命としてプラグインされる前に、汗をぬぐい、水分補給が必要な人間であると認知させられる僅かな猶予であった。

Linkageはまさに我々がFestivalに期待していた作品の一つである。
輝きを放ち、突き抜けていて、探求を続け、疑念を投じ続けるような、絶対に見るべき作品の一つである。
ブラボー!