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[coded : decoded] トークショー
[coded : decoded]

revised: 2003 / 05 / 12

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[coded : decoded]の会場風景などはこちらから。

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このときの対談がもとになり、五十嵐さんの著作にもnestの活動が紹介されています。

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雑誌、テレビ番組などメディアで取り上げられた内容をご紹介します。

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nest名義でのサイト・フペシフィックなインスタレーション。3,000個を超えるLEDがインタラクティブに明滅します。

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この原稿は2003年3月30日に東麻布のfooでのインスタレーション最終日に行われたトークショーを書き起こしたものです。

プロフィール(2003年3月現在)
五十嵐太郎 [建築評論家]
建築を中心に、美術、映画、音楽、サブカルチャーの領域に越境する批評活動を展開。
建築史家としては、近代の宗教建築研究にとりくむ。

*中部大学講師
/東京大学、東京芸術大学、大阪芸術大学非常勤講師

1967年パリ生まれ
1990年東京大学工学部建築学科卒業
1992年東京大学大学院修了
2000年博士(工学)

著書
「終わりの建築/始まりの建築」INAX出版、2001年
「新宗教と巨大建築」講談社、2001年
「近代の神々と建築」広済堂出版、2002年
「戦争と建築」晶文社(刊行予定)
「磯崎新の建築談義」(共著)六耀社、2001年
「ビルディングタイプの解剖学」(共著)王国社、2002年
など多数。

[coded : decoded] @ [foo] on 30.Mar.2003

[coded : decoded] @ [foo]

濱中(以下H)-トークショーの方をはじめさせて頂きます。本日は建築批評家、五十嵐太郎さんにお越し頂いております。建築ご専門の方はご存じだと思うんですが、そうでない方々はご存じないかもしれません。五十嵐さんご自身はかなり多彩な批評活動をなさってまして、著書、共著、など多数ございます。その辺に関しましては本日お配りしたプロフィールをご参考になさってください。
私の方での五十嵐さんとの出会い、きっかけということについてご説明させて頂くといまから8年ほど前になるんですが、1995年にTOTO出版の「世界の建築家581人」という本の編集作業を通じてお知り合いになりました。私の中では建築だけの批評ではなく、文化的な状況もふまえた批評ができる希有な存在の一人という認識をしています。
今にして思えば95年というのはオウム真理教のサリン事件があったり、バブルの崩壊が顕著に現れたりで、社会不安が急激に高まってきていた時期でした。オウムのサリン事件があった時、私は前述した本の取材旅行で南アフリカ共和国のケープタウンに滞在中でした。
nestがパフォーミングアートということで、基本的にはダンスや演劇の文脈の中で紹介されることが多いんですが、私個人の希望としてはそういったダンス、演劇といったジャンルから離れたところからもnestというものは捉えてもらった方がいいかな、と考えていて、このことはパフォーマーも含めて認識していることだと思います。
今回はそのような点もふまえて五十嵐さんにお話しいただければ、と思います。

五十嵐(以下I)-ご紹介に預かりました五十嵐です。建築系の雑誌にはいろいろ書いていますし、最近では美術手帖にもいろいろ書いていたりするんですけれども、今日みたいなパフォーマンスに関するトークショーは初めてです。そういう点でとまどいは隠せませんが、基本的に頼まれたら引き受けるというスタンスで仕事をしているうちにジャンルが広がってきたようなところもあるのと、昨年の夏からキリンアートアワードのコミッティーを椹木野衣さんたちとつとめています。これはビデオ応募ができるために実質的にはすべてのジャンルが対象となっているような状態です。その中にダンスやパフォーマンスなんかも含まれていたりしますので、語れないのはまずいなあというか自分への試練だと思ってお話しを受けたんですよね。
あと、たまたま私の周りでも建築にいながら割と若い世代の人たちで似たようなところではRE[ ]/Responsive Environmentというグループがいて、彼らは大学のちょっと後輩に当たるんですが、彼らはいまでも精力的に活動を続けています。自分が書いた評論の中だと、Diller+ScofidioというNY在住のやってることはとても建築とは思えないんですが、建築の人々がいて、彼らも舞台装置をやったりしています。個人的にデュシャンが好きなこともあったりして、彼らもデュシャンにすごく影響を受けているようなところをやっているので、無関係ではないと思っています。
さっき95年の話が出たので、ちょっと質問というかー今日は質問を多めに進めたいと思っているんですがーnestのwebで確認できる情報を見る限りでは、活動自体は10年以上前からされているようなんですが、webではっきりわかったのはちょうど95年くらい、UTのころからなんですね。もしかしたらそのあたりに活動の転換点があったのかなという気がしたんですが、如何でしょうか。


H-実は95年あたりの話だと私は主宰者じゃないのでよくわからない部分もあるんですが、webの情報が95年あたりからだということに関してはあまり深い意味は無いと思います。

I-でも、途中でスタイルをちょっと変えていったということはお伺いしたんですが。

H-それに関してはその時期ではなかったということですね。97年ころがその時期に当たるんだと思います。97年はじめに[Syntax Error]という作品がありまして、その後からさまざまなところで転機が訪れました。
例えば、パフォーマーの動きの作り方だとか、ーメソッドありきの、形にどうなぞらえて美しく踊るかということではなくて、動きのシステムを生成しながらそれをインプロビゼーションしていくというような、タイムラインのなかでその取捨選択だけを行っていくというようなーそういう形になったのは97,98年頃からの作品になります。内部的な転換点という意味ではそのころの作品からということになるでしょう。作品名でいうと、[Circulation Module]というもの以降になります。ちなみに初演は新宿のパークタワーホールだったんですが、そのときのプロセスワークというかそれ自体は[CM-process]という名前でnestの松尾というものが中心となって展開しています。彼はその[CM-process]というものをライフワークだと捉えているようです。それに関しても外に向けて発表していきながら整理していくというプロセスは必要だと思いますし、[Circulation Module]にしてもその後の作品、「Sinewave Filter」にしてもパフォーマーの動きなどそのシステムに基づいたものが多くはなっていますね。
今日なんかも会場でインスタレーションのLEDが派手に光ったりしていますが、あれもあらかじめセンサーに反応して作動するプログラムが組まれていて、そのセンサーへのきっかけによってプログラムが動くということでインタラクティブであるということをうたっているわけです。それと同じことが人体が動くときに関してもありますよ、ということなんです。例えばそれぞれのパフォーマーがループの動作をもっていて、それを任意のトリガーに従って切り替えていく、といったようなことをシステム化しようとしています。言い過ぎかもしれませんが、人体そのものをある種のデバイスとして還元しようとしているのかもしれません。

I-ということは動きの単位、モジュール、パターンというのをこなしていくというのがはっきりしたのが[Circulation Module]だったりしたというわけですね。

H-そうですね。

I-今日の[foo]、場所といったらいいのかな、は来るのが4回目くらいなんですけど、みなさんはご存じかもしれませんが[life+shelter]という二人組の松野さんと相澤さんが設計していて、一番上が居住スペース、真ん中に編集プロダクション、オフィスと住まいといったそういうものが一体になっているのと、あときわめて特殊な敷地の形態をしていて、いきなり入口にこういうパサージュといったようなものがあるという建物なんですけれども、ここの建物は見ての通り、未完成感の高い建物で、そのために建築雑誌にもなかなか取り上げてもらえないという話も聞きます。そういう意味ではこの建物は一年たってもそんなに仕上げが増えているわけでもなく、むしろ今日みたいなイベントのようなものが常時突っ込まれることによって、場が生成されていくということは設計者の意図したところでもあろうし、その様子を今日目の当たりにして非常に興味深かったところです。
余談なんですが僕はこの場所に来づらくて、実は今日も道に迷ってしまいました。何でここはわからないんだろうといつも思っています。
今日拝見させて頂いて、やっぱり敷地の形状を考えるとあそこを使うというのは非常によく理解できて、あとパフォーマンスに関しては僕はダンスの専門家ではないので、そのものについては何も語れないので建築のサイドからいいますが、さっき濱中さんともしゃべったんですが、「ものをみる」という行為はそれこそ古代から、それこそギリシア・ローマどころか人間の営みが始まった頃からあるといえばある行為なんですよね。その中で普通に発生するのが一対多という関係性ですから、ひとりとはいわないまでも少人数を大人数で見るというところから、必然的に空間の形式が決まってくる。その結果、放射状、あるいは半円や円形の空間ができて、その延長線上にずっと演劇や劇場の場はつくられてきた。そういう意味ではこの場所はそもそもその目的で作られたわけではないので、かなり切り刻まれた状態で今日のパフォーマンスを見たというのは結構面白いな、と。つまり、当たり前といえば当たり前なんですが、全体を見る場所がどこにもなかったというのがありますね。まあ、かろうじてあの辺(2F階段踊り場)にいると見えたのかなとも思いますが、そういう意味では古典的な視点からいうとすべてのひとが欲求不満を抱えながらつねに断片しか見ることができなかった、実際そこのテレビモニターを介して見ている時間が圧倒的に長かった、といったようなことは空間の関係性が面白いなと思いました。と同時に、この建築は一つのチューブのような形式になっていて、入口からここまでとぐろを巻いて、2F、3Fへとあがっていくという線形の空間が特徴になっています。入口のインスタレーションは、そのチューブの導入部分を使っているわけです。その線形の部分で演じる、そこでパフォーマンスをやることによって、ちょっと違う見え方がしたのは面白いなあと、さらにもっともっと変なことができるかなということも考えました。例えば、今日見た中で気になったのは、ここに一つだけテレビモニターがありますよね。まあモニターを通してみるというのはこの形式である以上必然的にできると思うんですよ。と同時に今回は複数のカメラの視点が一つのモニターに集約されていましたよね。それが実は気になったんですね。つまり、ある種テレビ中継のような感じになっていくわけですよね。例えば、こういう状態は巨大なスタジアムでは実際に起こっているわけで、ストーンズが東京ドームでやるときなんかは、後ろの方は見えないから巨大なスクリーンを見たりします。今回、複数のカメラを設定しているんだけれども、つねに人がいるところをこのモニターでは見せていたじゃないですか。勿論機材の制限はあると思うんですけれども、逆に何か定点観測のモニターが複数あってそれをバラバラに見ているという形もありなんじゃないかと思いました。こういう形式を取るんだったらここにすべての情報を再編集して人をおっかけながら表示させるんではなくて、あえて余裕があれば複数のモニターがあって、それぞれのモニターをまたおっかけるのもあっただろうし、上の方はプライベート空間なので、上を使っていいかどうか何ともいえませんが、やっぱり昨年訪れたときからあそこの上にあるバルコニーとかデッキというのは気になっていて、今回はなかなか使いづらかったですよね。その辺のいきさつは知らないんですけれども、どうせやるんだったらこのチューブ状の一番上のプライベートな空間までいって中庭のパブリックな空間と関係することができたのではないかとか、結局すべての空間を見ることができないわけだから、モニターが複数あることを前提にすると、その中に今やってないパフォーマンスの映像が混ざっていてもいいような気がしたんです。つまり、つねにライブでやってるだけではなくて、別の日に撮った別の所のシーンなんかが混ざって...それは見ながら勝手に思ったことなんですけど、まあ逆にいうとこういうパフォーマンスをやらないとこの空間の使い方が見えない、ということもいえると思います。[foo]みたいな場所は未完成で放り投げられているというところで、ここをどう使うかというのは見る人の想像力だとかにゆだねられているんですね。それは実際に使ってみないとこの空間ってどういう風に遊んだらいいかわからないわけで、そういう意味では僕も見るまで思いつかなかったわけで、こういうことをやっていくことによって実はこの場所はこういう使い方ができるんだ、ああいう使い方ができるんだ、ということを次々発見させていくきっかけになっているんだと思います。
建築のサイド、空間を使うサイドから今日思ったことはそういった印象です。アイデアを喚起させてくれるのは面白いなというところです。


H-いまのお話しでいろいろ思いつくところがあるので、順番にお話しさせて頂きます。
まず、エクスキューズから。テレビが一台しかないのは機材の事情によるものです。仰るとおり、複数台のテレビモニターが並んでいて見るのは見る人の取捨選択にゆだねられているというのは確かに一番いい方法かもしれません。恥ずかしながらご指摘あるまで気づきませんでしたが、仰るとおりだなと思います。
上を使えなかった件に関しては、事前の打ち合わせ不足というか、交渉はさせて頂いていたのですが。この建物の屋上というのは五十嵐さんのお話にもあったチューブが折り畳まれた状態という平面構成そのままの形であるそうです。見たことはないのですが、あるというように伺っています。本当なら使えるものなら使いたいなという話は実はしてはいたんです。ただ、今までそういった前例もないし、というようなことで今回は屋上の使用を見合わせたというような形です。あと、ちょっと残念なのは屋上に上がると東京タワーが見えるらしい。らしい話ばかりで申し訳ありませんが、というわけで見えるということは東京タワーから見えないこともないらしいということは話題に上っていました。ただまだちょっと東京タワーには確認にいけていない状況なんです。

I-なるほど。

H-まあ確かに見えたら「めっけもん」だな、と思って実はLEDを屋上に持ってあがって東京タワーから撮ってますよ、というのがわからない映像を混ぜるというのもばかばしいんですがアイデアレベルでは考えたこともあったんですが、今回はそこまでは詰め切れなかったということもあります。まあ、こちらの実際のインスタレーションの方にかかりきりになってしまってそこまでできなかったんですが。
先ほど五十嵐さんが仰っていた同時中継を並列で見せるというやり方なんかは、話が飛びますが、今のイラク戦争でイラクもアメリカもプロパガンダでいろんな情報を出してきて、それのどれが正しいのか、というようなことをどう選択するかについては見る人の側にゆだねられています、みたいな状況は実際たくさんあるじゃないですか。そういうような話にも結構つながりを感じるのと、いわゆる監視カメラのモニターがずらりと並んでいることだとか、そのテレビの中継車のなかでスイッチャがいろいろな画面が並んでいる中だとかーテレビって副音声ってあるけど、副画面っていうのはないじゃないですかーそういうDVDの裏ネタだとかおまけ映像なんかのようなものが同時中継で見せられるようになってくると非常に面白くなってくると思うのでこれからいろいろ試していきたいし、大事にしたいテーマだなと思います。
後はイメージの断片しか見えなかったのが逆に面白かったということに関しては、nestの中で私のような立場で舞台美術、構成をある意味専門で手がけていると、どれだけいままでのプロセニアム、オーディトリアムといった舞台があって、そこで人が踊って額縁みたいにはめ込みで見るというものからどれだけ逸脱できるかというの、変なあまのじゃくと言っていいようなモチベーションが常にあります。そのために観客席を半円形だとか、馬蹄形だとか劇場のいままでのプランではないものに落とし込んでいけるか、ということばかりを試行し続けている気がしています。勿論意識的にやっているんですが、さっきスクリーンが回転する話がございましたが、2000年にオランダのアムステルダムのKdCというカンパニーとのコラボレーション作品[LinkAge]を上演したんですが、その際は短辺6m、長辺14メートルほどのステージに4mX3mのスクリーンを3枚置いたんですよ。それも舞台のど真ん中に隔壁のように置いて、その両側でダンサーたちは踊って、さらにそのそれぞれのスクリーンも別個に回転します、ということもやっていたりして、ある意味すごく極端に断片しか見せない、ということは試行し続けています。
(建物の裏を通って人が通る)

I-たまたま、イラクの戦争の話が出たのでそれを続けると、この件に関してはメディアをどちらが乗っ取るかという戦争でもあるわけですよね。そうすると非常にスペクタクルなシーンを提供できた側が勝ちというか、相手を押さえ込むかということで、だからこそアメリカは従軍記者を増やしたり、アルジャジーラを非常に押さえつけようとしたりするわけですよ。ここでも人がいるとどうしてもスペクタクルになってしまいがちで、そうすると人がいない状態のパサージュがずっと映っていたりということでもこの方法論にはありかな、という気がします。それはたぶんnestがずっとやってきた方法論とも関係していて、これは果たしてダンスなのか、やっぱりジャンル分けするときにいろいろ何なんだろうという話があって、当然人の動きがないと成立しないんだけれど、必ずしもそうではないところ、舞台装置にものすごく重きが置かれているところ、という特性のようなものがすごく出ていて、そういう部分で評価を気にしているんだろうなということも思ったんですよね。

H-いつも半分言い訳みたいにnestはダンスじゃないんだみたいに言ったりするような所もあって、さっきちょっとお話ししたアムステルダムのKdCはガシガシのコンテンポラリー・ダンスのカンパニーな訳ですよ。それでこちらとしては舞台装置もやったし、映像も提供したし、音もやったし、照明もやったし、ダンス以外のことはすべてnestでやって、出てきた人はKdCのダンサーでコレオグラフィは一応nestも口出ししてはいたけれどもあまり組み入れられなかった、というような経緯もありました。そんなわけでnestの装置でいわゆるダンスダンスしたものが上演されるとどうなるかというのはそこでかなりわかったところもあります。
今回のインスタレーションなんかも助成金の申請なんかをしてやっていて、日本のお役所のシステムにどう乗っかっていくかと言うことも戦略としては大事なことだとは思うんですけれども、nestで今回出しているジャンルが「先駆的、実験的」というジャンルなんですよ。もう収まらないものをここで吸収してしまおうというジャンルで出さざるを得ないというのは正直なところですね。
こういうものがどう認知されたり、私たちから見るお客さんがどう増えていったり、あるいは減っていってしまったりするのかというところは、不安を半分抱えながらもメンバーは表現のモチベーションがそこにあるので、このようなことをやり続けているということです。

I-最初にというか打合せでお会いしたときにどういうジャンルで助成金をとっているんですか?ということが気になって正にお聞きした、というのがさっきのようなお話しで。
ところで、今回、ゲスト・パフォーマーで出られた方々は普段のnestの公演にも出られているんでしょうか。


H-通常はあまりないですね。ただ、昨年(2002年)夏にやった[zbb]という作品に関して言えば、さっき五十嵐さんにはお話ししていたんですが、The Beatlesの[White Album]っていうのがあって、あれはメンバーがそれぞれ好きにやっていいよというところでジョージ・ハリスンがクラプトンを連れてきたり、というような調子で一曲一曲に仕切屋がいて、それをみんなメンバーがやりたいようにやったものの集まり、ということでそういう意味でのコンセプチュアルなアルバムだと思うんですが、nestの音をやっている松尾というものがそれになぞらえてものを語ることが多いので、そういう風に作ったらいいんじゃないかというのがあったわけです。それでまあ、昨年やった[zbb]というものに関しては、nestのメンバーが旗振り役になって、今日やったみたいな10分、15分のシーンをつまんだものをたくさん並べるというようなことをやったわけですね。そうしたら、大分いわゆるシステマティックに構成するというものが出て、結構おどろおどろしいものが出て、実際酷評の方が多かった。そういうことで、ゲストの数が異様に多くて、出演者の数でいうと40人から50人が出演したという公演にはなったというところです。そういうことで、今回のような試みはなかったわけではありません。さきほどの[CM-process]という大体いつも60分のもののなかでゲストパフォーマーという形で出演してもらったことはほとんどありません。勿論ダンサー・パフォーマーとして公演に出てもらってそのシステムの中で動いてもらうということはありましたけれども。
今日も昼頃来て打ち合わせしていたときにちょっと話していたのは、例えば今日は山崎広太さんと発条トの白井さんとnestです、というようなところで何かのフェスティバルみたいだね、という話をしていたりはしたんです。言葉は悪いですが、オトクかなとか、単純に非常に面白く、かつ興味深く見ることができました。企画してみてよかったですね。

I-今日、最初山崎さんのものを見ていて思ったんですが、nestのビデオを何本か頂いてみている中で笑いの要素が足りないなとちょっと思っていて、結構それが入っていてよかったなあと思ったりしたんです。今までのものでビデオを見せて頂いた中では[Circulation Module]が一番印象に残ったというか、密度が高いなあと思っているんですが、今日やったのは今までのようなすごく作り込んだものとはちょっと違う試みなんで、nestのやってることのテーマとかメッセージということについてどういう問題を設定しているのか個人的に気になるところで、あえてテーマをつけていないのか、今回もたまたま[coded : decoded]というタイトルが付いていますが、この言葉だけ捉えると最近カルチュラル・スタディーズでcoding, decodingみたいな話があって、あるサブカルチャー的な表現の中にどういうイデオロギーがそこに混ぜ込んであって、それをdecodeしていくときに解読の仕方が人によって違うなんていう議論があって、別にそういう話とは違うというか、coded,decodedといったときに内容があってそれをどうやるかという話は割と多いんだけれども、むしろ今回は、どうしてこのタイトルが付いたのかまだ聞いてないんですけれども、むしろ形式的な変換の話でやっているのかなあ、と。その辺のことを聞きたいんですけれども。

H-せっかくなのでタイトルの話から。これからお話しすることはタイトルを思いついたときにあらかじめ考えていたことではなくて、いろいろやっていく中でそういうように考えるのが妥当ではないかと思うに至ったものです。[coded : decoded]ということでいうと、みなさん普通にPCをお使いだと思いますし、encode, decodeという話は日常では気にしないけれども、今の世の中encodeとdecodeしかないっていうくらいすべての行為だとかものの流通だとか、例えば電気信号なんかはすべてencodeとdecodeでしか動いていないわけですから、そういうようなものだというような意識はありましたね。ただ、最初はもっとベタなところで、nestがやっているようなことをもっと違う人に、例えばnestの作品づくりがencodeだとすれば、全く違う人にdecodeしてもらいたいな、本来の意味でのencodingとdecodingは必ず規則があって、その文法を逸脱してしまうとencodeされたものがdecodeされないというようなことだと思うんですけれども、今回の[coded : decoded]のときに考えたのはencodeしたからdecodeしてくれよ、という預け方とdecodeするときのミスリーディングだとか深読みだとかを期待したいというのはタイトルとして意図されているものでもあります。そういうことで、[coded],[decoded]でインスタレーションとパフォーマンス+トークショーを分けていたりしています。ついでにいうと今回このLEDがビカビカ光ってますけれども、種明かしをしてしまうと面白くないよとか言われそうですが、LANのHUBというのがあるじゃないですか。コンピュータで使うHUBのことですが、あれでチャンネル数が多ければ多いほど面白いんですが、そこにあるMIDIのコンソールについているLEDにしてもそうなんですけど、何か情報が行き交った瞬間にパイロットランプとしてLEDが点滅するわけですよ、あの現象が物事をすごく象徴的にあらわしている気がして、LANなんかだとPCとほかの場所にある情報が電気信号としてやり取りされている瞬間にLEDが明滅しているということではないですか、そうなるとコミュニケーションって言葉でいうのも浅はかかもしれませんが、そういうような物事の象徴としてLEDの点滅なんかを今回使えるといいかな、というのは最初の見えがかりのものを考えるきっかけになっています。LEDはかなりみんな最近見慣れちゃってるし、世の中信号もLED化されていっているような状況なので、普段目にすることのない見え方や光り方でLEDをレイアウトするというのがモノとしては第一義かな、ということで今回のようなレイアウトにしてあります。

I-じゃあちょっと続きでこれもさっき濱中さんに話していたんですけれども、webでnestのことを調べている中で突然熊倉さんの批評がサーチエンジンで引っかかってきて、nestとしてもあの批評に対して思うところ、言いたいところがあると思うんですね。熊倉さんはみなさんもご存じのようにダムタイプを非常に信奉している人で、彼の視点からnestの活動を見ていくとどうしてもアンチヒューマンっていっちゃっていいんですかねえ、スタイル、形式性が先に来すぎているんじゃないか、あるいはテーマ性の有無ですね、そういう意味ではダムタイプというのは確かに割と毎回メッセージをはっきりさせている。彼らの作品には、ある種のわかりやすい普遍的なテーマがくっついていて、それを難解な表現につなげているじゃないですか。そういう評価基準をするとまあ違う、という話にはなるだろうかと思うんです。あそこに関しては位置づけの仕方についてはそんなに違わないんだけれども、最終的な評価の仕方については、あの場合は熊倉さんはどうしてもダムタイプ万歳になってしまうので、そういう導き方をするんだけれども、別にそうではない。それを肯定的に位置づけすることも可能だろうと僕は思っているので、必ずしもくみするわけではないんだけれども、それもさっきの話につなげて一つのメッセージだとか意味みたいなこと、確かあれは[Syntax Error]をみて書いたんですよね。その辺について個人的に興味があるんですが。

H-熊倉さんには叩かれ続けている、ていうわけでもないのかな?やっぱりダムタイプはnestのメンバーの間でも話題に上らないことはないぐらい、普遍的なテーマというか、仮想敵でもないし、フォローしたい先輩というわけでもないし、でも意識せざるを得ない対象な訳ですよね。そことどういう風に折り合いをつけていくのかというところで、同じことをより完成度を高めてやるという方向性なのか、それとも全く違うベクトルの表現の仕方があるんだということを見せていきたいのか、というところでみんなやっぱり悩む。やっぱりダムタイプなんか見に行くと、池田さんの音なんかすごく完成度が高いし、ここまでそぎ落としてやっちゃうとほかはもう真似すると真似だな、としか言われないみたいなところをうまいことセンス良く持って来ちゃうんで、そういうモノに対することとかね。実際モノとしての迫力があるというところが大きい。
で、ダムタイプで圧倒的に違うのが、古橋さんがいたころと亡くなってからというのは僕の中では印象はまったく違います。古橋さんの最後と池田さんの参加は若干かぶってますけど、古橋さんがいなくなってしまってからのダムタイプに対してあんまり強いメッセージ性みたいなモノは感じないかな。それだけ古橋さんが発しているモノというのが大きかったんだろうし、それからどう抜け出してくるかというところをずっとやり続けているんじゃないかというように僕なんかは見がちです。
池田さんなんかは実は僕が学生時代から知っていたりするんで、こういうことを言ってそうだなあというのは何となく想像してしまいます。
まあ、僕がダムタイプに対してどういうように思っているかというのをみんなに話しても仕方がないので、ちょっとnestの話をしておくと、nestはそこで叩かれることが多いんだけれども、nestとダムタイプの圧倒的に違うところは、ダムタイプは理想とする完成形がかならずあるはず、パフォーマンスが始まって何分何秒にはかっちりとこの形が一番美しいんだというようなことがおそらく想定されているんだと思うんですよ。その完成度が高いところを求めてどこまで煮詰めていけるのか、ということをずっとチャレンジしているんではないかという気がするんですね。nestに関してはある意味現場に脚を運んでくれている人々に対しては失礼な言い方かもしれませんが、これは僕たちの実験場です。実験を見に来てもらってるんですよ。というものの見せ方にここ4,5年はなってきています。さっき話していた[CM-process]のようなものを試行としてやっていって、おきまりのループパターンだとかいろいろつなげてやっていったりしてるんですが、だからといって何分何秒に誰がどの位置にどんな姿形でいるかなんていう見せ場のシーンを意図的に作ることはやってないわけです。逆に言うとパフォーマーそれぞれがもってるシステムをひとつの舞台に放り出して、それを時間というルールだけでコントロールして、それをマルチレイヤーだと自分たちでは称しているけど、パフォーマーのそれぞれを通して上から見たときにいったい何が起こっているのか、こういう風にかっこよく見えることもあるんだ、これが見られた方々はラッキーでしたね、というような試行をやり続けようとしているんです。
なので、ダムタイプのように完成されたモノが好きという人が、nestのようなモノを見て好きというとはとうてい思えない。それはやっぱりある意味仕方がないし、完成されているモノを好む人の方が多いんだとすればそれはちょっと残念ではあるけれども、トライアルとしてはそういうようなことをやり続けています。
さっきちょっとお話しした去年ゲストパフォーマーがたくさん出た[zbb]なんていうのは、ちょっとそこから逸脱してみたんですよ。そうしたらやっぱり混乱したし、面白かったし、評価もすごく悪かったし、大分いろんな意味で考えさせられました。今日参加してくれた方や見に来てくれた方もいらっしゃいますが、オレの中ではまだあまり整理がついていないところがあって、次どういう風にやるのかなというのは結構難しいところですね。
でもさっき五十嵐さんに言って頂いたみたいな情報を単純に並列で、併置するというようなことはもうちょっと考えないといけないかなというのは大きなヒントとしてありますね。

I-ダムタイプとの話でいうとnestとしてはチャンス・オペレーションであり、生成変化する様態を見せることによってというスタイルはまったく異なっているし、逆に言うと、ダムタイプは美に対しての意識がとっても古典的であるかもしれない。美があるからこそ、浅田彰さんも大好きだったりするのかな、と思うんですね。たまたま冗談みたいな話ですが、時事ネタということで、先日ビデオ屋さんで、金日成のパレードを借りました。東欧のテレビ番組のドキュメンタリーですが、やはり北朝鮮は壮大なマスゲームになるじゃないですか。同じ頃に、nestのビデオと金日成のパレードを見ていたら、なるほど対極の世界かな、と。マスゲームは全体がびしっと完全にシンクロしないといけないし、乱れがあっちゃいけないわけで、たまたま見ながらなるほど、一つの対極の世界がここにあるんだなどと思っていたわけです。

H-マスゲームの話でいうと仰るとおり、対極のモノだと思います。マスゲームがやりたくないかと言われると、やってみたい気がしなくもないし、ずるい言い方をするとそういう方法論の一つとしてー生成変化していくーマスゲームやってみましたという態度はとってもいいのかなとは思いますね。実際そこまできちんとできてるマスゲームのようなことは今までやったことはないわけだし、そこまで訓練してもいないしというところは正直、あります。

I-まあ確かにnest的なマスゲームというのは逆に想像可能かもしれないですよね。

H-そうなんですよ。それでいうとマツオという人物が[CM-process]をメインで考えていて、その最初期からずっと言っているのが、「これはすごいシステムなんだよ。これを東京ドームで5万人でやりたい。」という話はしていて、それは実際面白いと思うし。ただよく考えてみると、渋谷の交差点なんかでも何百人もが一度に交差点をわたってぶつかったり、ぶつからないように歩いたり、しているというだけでもそれ相応の情報のやり取りなんかがあるんだと思うんですよね。ある意味そういったもののシミュレーションというわけでもないけど、そういうようなものを意識的に場としてつくって、しかも劇場のようなビルディングタイプにこだわらないように客席の構成なんかも考えるようにしてやる、というようなことをやり続けていますね。

I-その場合には場所を野外とか屋外とかは考えていたりするんですか。

H-場所は全然とらわれないですね。ですから実際この[foo]のようなところでもやるし。パフォーマーやダンサーなんか身体を動かす人たち、見られるモノとして身体を提供するようなひとたちは場が設定されると何かやりたくなるし、やってくれるし。そういう意味では信用してるし、期待もしているし。場所がどこであれ、全然問題ないと思います。
nestもちょうど10年前、私が大学院の学生のころに学校の屋上にイントレー仮設足場ーを運びあげて似たようなことをやったことがあるんですよ。

I-井坂幸恵さんとかいた頃ですか。

H-ああ、いらした頃です。

I-井坂さんもやられてたんですか。

H-ええ、ちょこっと。

I-彼女はパフォーマーで?

H-いえ、彼女はインスタレーションで参加されてました。
そのときnestが初めてでいまのところ唯一の屋外公演をやったときがあったんですが、ちょうど梅雨時であと2,3分で終わるというときに急に大雨に降られまして、未完のプロジェクトだったんですが、そのときはnest主宰の石山が羽交い締めでダンスをとめられてそこで終わった、というものがありました。

I-芝浦でしたよね。

H-そうです、芝浦の田町校舎の屋上です。

I-出発点は結構RE[ ]と似てますよね。RE[ ]も10年程前、東大の生産研の屋上でパフォーマンスをやっていました。

H-何年頃ですか?ちょうど芝浦でやったときにも見に来たいというようなことがあったと思います。そのときはハプニングみたいなことだとか、大げさな話、中世のヴィラでお金持ちがサロンを開いて吟遊詩人を連れてきたり、踊りを踊らせたりしていたような場をどこかに設定した方がいいんじゃないかという話があって、それは大学院のゼミから出てきた話で研究成果の発表の場として屋上にサロンを出現させようという話になって。
そのときはnestはトリで出て、ほかにはウクレレ・オーケストラっていってウクレレの人が30人くらい出てきて弾いたりだとか。何かわからないけど異ジャンルなモノがたくさん見られるような場を設定しました。
ここで結構建築よりの話をしてしまうと、公共建築の世界で行われているようなことも単純に箱形行政が批判されているようなこともあるだろうし、実際そこに住まう人々の意識の向上もあると思うんですよ。そこの場所で行政が仕切って何かを作るときに、何が行われるのかとか、どういう施設が入るのかとか、それにどう関わるのかといった部分をかなり事前から煮詰めてつくるようになってきてるじゃないですか。そういったことは本当はもっと早くから行われていなければならなかったことで、そうなっていかないと建った建物自体も全然ハッピーじゃないし。いい流れだと思います。

I-今日配っていた資料なんかはweb上でも[Circulation Module]のものがアップされていて12ページくらいある仕様書があって、これが面白いなあと思っていたんですが。

H-[Circulation Module]のものに関しては専門用語でテクニカルライダーといって海外なんかで公演をうつ場合にどのような場所と機材を用意すればいいのか、ということを理解させるというのがおもな目的です。
仕様書のようなモノについては多分に男の子心というか意識的に作ろうとはしています。
どうしてもMIDIのシステムを使ったりだとかそういうようなときはスペック重視だとかどういう風に組まれているのかシステム重視な方向に陥りがちじゃないですか。単純に紹介ですよと言うことで出しているだけで、そのシステムに特別なこだわりがあるものではありません。生成するツールの一つとしてやっていて、何が起きるかはアプリケーションの書き換えでやればいいじゃないかというスタンスです。


予定より大分長くしゃべってしまったようなんですが、質問等ございますでしょうか。

O-プロデューサー的な視点で見た場合に、さきほど未完成感の高いとおっしゃった[foo]という場所に何かワンアイテムを入れて完成させるとしたら何を入れられますか。

I-なんだろ、常時何かここでイベントをやるシステムを考えるというのが、楽というのか、何か決まったハードで完成するとも思えないし、かといって単発のイベントでは毎回毎回組み立てるのが大変ですからねえ。ここで定期的にイベントをやるシステムを考えるというのが...優等生的な答えになってしまいますが。<